ドイツに住み始めたこともあり、今年は意識してドイツ人作家の翻訳小説に手を伸ばした。 独日翻訳が最も盛ん、かつ玉石混合なミステリー分野の中でも、世界的に評価の高いシーラッハのデビュー短編集「犯罪」が素晴らしかったので、今日はそれについて。

高いレベルで統一された全体のテーマとトーン

僕が2017年に読んだ短編集ではテッド・チャン「あなたの人生の物語」と競っているが、全体の完成度としては断然こちらだろう。

ところで短編集には2種類あると思っている。

  1. 元々別で書かれたいくつかの話を、作品が書かれた年代や、出版社側の意図、後年の編纂など、作品「外」の理由を持って束ねたもの
  2. そもそも作者自身が必然性を持ち、一貫したテーマで短編を紡いでいくもの

この「犯罪」は明らかに後者だ。 統制のとれた無駄のない文体と、全体を貫くテーマ、そして通底する作者のある視線(後述する)。

短編(集)とはこうあるべきという、模範になるような優れた名作だと思う。

作家について

フェルディナント・フォン・シーラッハ(Ferdinand von Schirach)は1964年、ドイツ・ミュンヘンに生まれる。 小説家としての執筆活動と並行し、現役の刑事弁護士としても活躍する。 この弁護士としての側面は作品に影響を与えるというレベルを超えて、彼自身の小説と切っても切り離せない関係にある。

また、彼の祖父はナチ党の指導者の一人でもあったバルドゥール・フォン・シーラッハ。 (シーラッハは2011年の中編作「コリーニ事件」でこの生い立ちと向き合うことになる)

現在彼の作品は35ヶ国語以上に翻訳され、世界各国で高い評価を受けている。

この作品について

「犯罪」は2009年シーラッハが45歳の時に書かれた全11話の短編集である。 ドイツ国内だけで450万部部売り上げており、ドイツで100年以上の歴史ある文学賞クライスト賞を2010年に受賞した他、米ウォール・ストリート・ジャーナルやNYタイムズなど各氏から高い評価も獲得している。

翻訳者は酒寄進一氏。早稲田大学出身のドイツ文学翻訳家で、シーラッハの一連の作品の他にも、アンドレアス・グルーバー「夏を殺す少女 (創元推理文庫)」、ネレ・ノイハウス「深い疵 (刑事オリヴァー&ピア・シリーズ・創元推理文庫)」なども手掛けている。

シーラッハの、必要以上に語らない、ドライな、しなやかで統率のとれた文体が日本語でも淀みなく表現されているのは、この訳者の技量に依るところも大きいと思っている。

ちなみに、日本でも本屋大賞 2012年 翻訳小説部門 第一位など、外国語文学、ミステリー文学の賞に数多く挙げられる本作だが、個人的にミステリーと呼べるかは疑問が残る。 刑事事件や法曹界を舞台にしたドラマであるという印象が強く、最も印象に残るのは、弁護士、裁判官、検事、参審員(犯罪事実の認定のみを行う陪審制と異なり、裁判官とともに量刑の決定にも携わる)たちが事件をどのように扱い、どのように判断を下すか、という部分であるからだ。

一貫したテーマ

11の短編が1つの短編集として珠玉の作品にに昇華しているのは、共通の語り手という存在以上に、著者が事件・被疑者に対して向ける「視線」であると僕は思っている。

どんでん返しがあるわけでもなく、ドラマティックな盛り上がりがあるわけでもないこれらの物語に、なぜこれほどまで心を動かされるのだろう。

本書で事件を起こすのは、猟奇的な殺人を犯す者、長年連れ添ったパートナーを殺す者たちだ。語り手は彼らを、理解不能な殺人者とは考えない。

だからといって、読者の前に被疑者に有利な事実を並び立て、殺人には崇高な目的があったのだと、被害者を悪に仕立て上げるということもない。

一つ言えることがあるとすれば、シーラッハは弱者の側に立つ。

淡々と事実が述べられている中でも、そこには理解と労わりの姿勢が見える。 犯罪という形で顕在化した個々の事例はどれも奇怪で特異なものだが、その実、一つ一つ語られていく被疑者たちの生い立ちや事件のきっかけは、至極ありふれたものであることも多い。

日本人の自分とは異なる世界の物語ではなく、むしろ日常のすぐ傍に潜む、部分的には重なりすらする彼らの人生に、戦慄を覚えながら読み進めた。

現役の弁護士が物語を書くということ

短編の話の多くは、実際の事件を下敷きとして書かれているらしい。 それぞれの事件はバラエティーに富んでいて、事実は小説よりも奇なり、を地でいくような話ばかりだ。 もちろんドイツの弁護士にも守秘義務があるので、固有名詞や事実関係は差し替えられているのだろうが、非常にディティールに富んでいるので、実経験が占める割合は、非常に大きいのではないかと推測する。

作中の語り手=「私」は著者と同じくドイツを拠点にする刑事専門弁護士だが、著者の背景を知っていれば、重ねない読者はいないだろう。

また、法制度と現実の話になると、ことさら行間を読ませる描写が多くなる。ドイツの法制度への問題提起や苦悩は表立って描かれない代わりに、法制度と法廷を巡る現場でどのようにバランスをとっているかが描かれる。

裁判官は被告人が有罪と思われるとき主要手続きをはじめる。少なくとも教科書にはそう書かれている。しかし現実には別の事情がからむことが多い。裁判官は上訴されることを好まない。そこで無罪と思われる場合でも、主要手続きが行われることが多い。

裁判官にどのような行動が影響を与えるか、シーラッハは熟知している。

もちろん精神鑑定は判決を決定づけるものではない。精神科医は、被告人に責任能力がないとか、責任能力が希薄であるとか、そういう結論をだすことはできない。それを判断できるのは裁判所だけだ。しかし精神鑑定は裁判の行方を左右する。裁判官に科学的根拠を提供する。


語り口と文体

シーラッハの文体は「淡々と」「無駄を削ぎ落とした」などと形容されることが多い(事実、僕もそういう言葉を使ってきた)。

「犯罪」を読み通したなら、この一見シンプルに見える文体も必然だと気づく。 事件や経緯がそもそも起伏に富んでいて、扇情的に脚色する必要がないからだ。

ただ、著者の皮肉やユーモアが散りばめられたディティールに気がついてくると、本書はより味わい深くなる。

ようやく首を切り落とした。びっくりするほど重かった。グリル用の炭を入れた袋みたいだと思った。そして、そんなことを連想する自分にあきれた。グリルなんてしたことがない。

表現の巧みさにニヤッとし、同時に、経験したことなんてないはずなのに、その重さや手触りを否応無く想像させられてしまう、シーラッハの技術が光る場面だ。こういう箇所が随所にある。

最後に

これらの物語は「犯罪」というある極端な形で顕在化した、ドイツ社会の様々な側面であるとも言える。

移民、貧困、人間の業と性質、法律理念、参審制、不条理。 そのいずれからも距離を保って論じるシーラッハだが、時折感情を吐露することもある。

アメリカやイギリスとちがって、ドイツの検察は中立の立場を取る。客観的で、被告人に有利に働くことも調査する。だから勝訴することも、敗訴することもない。検察は法律以外に予断を差し挟まない。ただひたすら法と正義のために奉仕することになっている。

その後にこう続く。

ただしこれは理論上のことだ。捜査手続き中はそのように事は進む。だが公判の成り行き次第で状況は変わる。客観性が損なわれるのだ。人間の性だといえる。なぜなら検察官がいかに善良でも、検察官であることに変わりはないからだ。そして罪を問いつつ中立の立場に立つことほど難しいことはない。これはおそらく刑事裁判における欠陥だ。法律は要求が高すぎるのだ。

ドイツという国を理解する上でも、また、現代を生き延びる人間存在を考える上でも、意義深い必読の一冊。

ちなみに先述の「コリーニ事件」は、ある殺人事件を軸に、若き気鋭の新人弁護士と、剛柔使い分ける老獪な弁護士(僕の頭の中ではアンソニー・ホプキンスがキャスティングされている)が対峙する、これまた面白い中編である。

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